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​当山縁起

当山は、桑島山 正覚院 金剛定寺と云いますが昔は能満寺と云いました。寺には三つの名前が有ります。

【山号】昔寺は僧侶の修行する処であり人里はなれた山の中に建てられたのでその山の名を取ったのです。
【院号】垣根のある屋敷と云うことで僧侶の住む宿坊を○○院と云った訳です。
【寺号】仏像を安置し仏道の修行や仏事を行う所を寺と云います。

明治三十六年六月一日 昼火事

この火災により、古文書や絵画・仏像等も殆どが消失してしまいました。しかし幸いなことに、この寺は関東でも屈指の大寺であり、当時の住職が本山へ行かれて住職になっていた関係で、当寺の事が記されている書物が本山に残されておりましたので、その書物を参考にして当寺についてご説明していけたらと思います。

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​金剛定寺の開創

 当山の開かれたのは弘安元年(西暦一二七八年)鎌倉時代北条時宗の時で、開山は伊豆北条の人益田峰忍比丘です。峰忍公は、両親が子供のない事を悲しみ、毎朝普香天子に祈って生まれたと云われる方です。幼少にして出家得度し、奈良の寺で事教をきわめ、廿六才の時高野山に登り伝法院に学び、求聞持の法を修し、その后諸国の霊場を巡拝して修行すること十三年、三十九才の時諸国を巡って、下野国桑島の里へ来られたのです。恐らくは墨染めの衣と饅頭笠の姿で、錫杖をついてこの桑島街道を通られたものと思います。

 うっそうと茂った木立の中に、かすかに薄日がさし、一つの井戸から蒸気がもうもうと立ち登り、その中に身の丈三尺余りのお不動様がうかんで見えたのです。不思議に思って村人にきくと、村人はあの井戸は「とっこ」の井戸と云い、昔八人の童子が「とっこ」を以て掘った井戸であり、大変有難い井戸で水はこんこんと湧き出ており、どんな病にもよくききなおらないものはないと云われ、夜には井戸から光がさし、又夜ふけには灯火が鬼怒川からとんで来ることがあり(竜灯と云う)本当に不思議な井戸であると話してくれました。

 この話を聞いた峰忍公は、この地こそ自分が久しくさがし求めた土地であると大変喜んで、其の傍らに草庵を建てて住み、寺院建立の誓願を立てました。併し建立資金の寄進も思う様にならず大変苦労をされました。峰忍公はある日求聞持の法を修すると共に不動明王に伽藍成就の願いをかけられました。そして毎日早朝より暗くなる迄ひたすら、浄財勧募に精進されたのです。

 漸く一堂が完成されご本尊不動明王も寄進されましたので峰忍公はここに住まいし日夜練行をつまれました。その後峰忍公の名を慕い随従し修行する者も次第に増して来たので、峰忍公の住居の正覚院の外に、東福坊・西福坊・南林坊・北林坊の四坊を建てて宿坊とされたのです。又その頃、鎌倉幕府の将軍惟康親王が大病にかかり医師も見はなす状態でしたので、幕府は峰忍公の名声を聞いて使者を遣わして病気平愈の祈願をさせました。峰忍公は親しく不動護摩の秘法を修し神呪をとなえて病身を加持されますと蛇影はたちどころに除かれて病気は快方に向かいました。この事を喜んだ幕府は数棟の建物と若干の供養田を寄進しましたので、次第に寺院としての形態を整へて行きました。

 その後、約百年程すぎて、祐請上人と云う方がありました。常盤真壁の人で、母が雨引山の観音様に願をかけて生まれたと云われ、生来聡明で顕密二教を学び常に観世音の法を修しておられました。明徳四年(1495年)の春、当山に赴いて寺門再興を期せられました。その年の夏、大変な日照りが続き四ヶ月余り一粒の雨も降らず、作物は殆ど枯れ人々も又、餓死する者さへ出る始末で大変な騒ぎでした。

 祐請上人は一里程離れた鬼怒川の野手と云う所に壇を設け、廿一日の間雨乞いの行をされました。野手淵と云う所は、川が大変深く水が渦巻き、竜宮の入口と云われておりました。上人は仏舎利一粒を淵に投じ竜神に供養されました。その霊験あって、黒雲俄かに起って雷鳴を轟かせ、降りそそぐ雨で一寸先も見えぬ状態でした。この様にして大飢饉も治まり万物漸く生気を取り戻し、住民はひどい苦しみから救われました。

 翌年祐請上人、醍醐山に登り、東寺の道快僧正に会い、諸尊の行法の伝授を受けられた時、たまたま話がこの事に及び大変驚歎されました。後この事が、時の朝廷後小松天皇の耳に達し、大変感激された天皇は上人の位を賜わると共に金剛定寺の額をつかわされ、寺号を金剛定寺と改められました。上人は寺に帰り、山門に頂いた「額」を掲げ法門の拡張に努めました。枝院は十八を数え、又末寺となるもの三百余あったと云われます祐請上人を中興の祖(第一世)と云います。

 その後、歴代の住職の努力により、常法談林(常設の僧侶の修行道場)として師弟の教養に勤め幕府からは御朱印廿五石を頂き、十万石の格式を具えて関東の大本寺として栄え、多くの学僧を出し、また本山の能化となる名僧等も出て本宗の発展に貢献致しました。然るに、明治初年の王制復古と廃仏毀釈の逆境は如何ともし難く、その上大火にあって一山灰滅に帰し、当山はまさに崩壊の寸前に立ち至ったのです。

 明治四十四年前住職照尊師当山に晋住し寺門の再興を発願し、桑島仏教青年会を創して壇信徒の教化と農村の自力更生を期して青壮年の指導に努め、農繁期には託児所を開設して農村生活の向上に寄与し又、昭和九年の弘法大師一千百年の御遠忌には、記念事業として鐘楼堂及び講堂を新設し本堂の再建を計画しましたが、農村経済の不況と支那事変の勃発等により成就する事なく、又財戦後の寺有農地の全面解放は寺の前途を大変あやうく致しましたが、その後の我国の経済の発展による寺院経済の好転と五百余の壇信徒の協力に依り、壇信徒の菩提所として祖先の御霊の供養と生きた心の教化の場として、其の装いを新たにして現在に致っております。

 昭和三十二年持福院の本堂を移築して当山本堂とし、昭和四十六年梵鐘再鋳、昭和五十一年庫裡客殿及び境内を改修整備し又昭和五十九年の御遠忌には、報恩謝徳の念を表すべく、宗祖弘法大師御尊像の建立と本堂内部の改修を致しました。

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